なにわ八百八橋
江戸時代、大阪には「なにわ八百八橋」と形容されるほど多くの橋がかけられました。中でも、都市における重要な役割を持った3つの橋(「心斎橋」「信濃橋」「長堀橋」)は「公儀橋」として幕府直轄の指定を受けていました。
明治に入り、河川の埋め立てが始まりましたが、姿を消した橋の名前が今も地名として残っているのは、人々の暮らしに橋がいかに重要であったかを物語っています。
橋の資材の変遷
難波津(第一章参照)の時代から大阪にはたくさんの橋がかけられましたが、そのほとんどは木材を使ってつくられていました。
明治時代に入ると鉄の輸入が始まり、1870(明治3)年にはイギリスから輸入された練鉄を資材に高麗橋が建設されました。
その後、1885(明治18)年の淀川大洪水をきっかけに洪水に強い橋へのかけかえが進みます。
橋の近代化と市電の整備
大阪の橋は市電敷設によりさらに近代化が進みました。当時は日露戦争から第一次世界大戦に至る経済の活況期にあり、都市への人口集中と産業の発展に対応するため、陸上交通の整備が急務でした。
1903(明治36)年の花園 - 築港間の市電開通以降、大正末期までに膨大な市電網が整備されました。それに伴い80あまりの橋が架設改築され永久化しました。
架橋技術の革新
戦後、本格的な技術革新が始まり、1953(昭和28)年に、我が国初の合成桁橋である神崎橋がかけられ、1950年代後半にはコンクリートに代わり鋼の床版が出現。大規模な工事が定着しました。
その後も世界初の技術を駆使した此花大橋や、世界でも類を見ない旋回する橋、夢舞大橋など、最先端の技術を駆使した橋が大阪には多く存在しています。
![]() | 橋は大阪の代名詞 |






